昭和五十七年六月一日 朝の御理解


御理解第二十節

「此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話にして聞かすのぞ、疑って聞かぬものは是非に及ばず可愛いものぢゃ、又、時を待っておかげを受けるがよし、各自に子を持って合点せよ、親の云ふ事を聞かぬ子が一番つまらぬ、云ふ事を聞かぬ子は親も仕方あるまいが」


 教祖の神様が、天地金乃神様よりお受けになられたお教えを残しておって下さるのが、このお教えだと思うんです。
 云う事を聞かぬ子は親でも仕方あるまいが、とこう仰せられるのは、云うておられる事教えておられる事が、云う事を聞かんではなくて分からないでおる、と云う事。
 天地金乃神様よりお受けになられたお教えを説かれましても、その意味が分からんでおる、と云う事。
 あまりにも深遠です、ですから分からんでおるね。
 時節を待っておかげを受けるがよい。
 私は金光教始まって百年、そして色々に説かれたお教えのその深さ、広さが分からないなりに来ておる事が沢山あろうか、と思われますね、分からないから聞かないのだ、とね。
 云う事を聞かんと云うのは、親の云うておる事が分からん、意味が分からん、深さが分からんから聞かん。
 だから時節を待っておかげを受ける。金光教始まって百年、初めてその時節が到来したと。私は合楽で説かれておる御理念の場合がそう思うですね。
 教祖様のお教えがいかに深遠であり、普遍性に富み、それこそ人間の助かる事の理念と云うものが、天地金乃神様よりお受けになられたお話の中にいっぱいあるのだけれども、今日まで本当の事が分からんなりに、さあお徳を受ける、おかげを頂く為には、一般宗教とあんまり変わりないような、それこそ火の行をしたり、水の行をしたりするような信心が百年間続けられて来た事だけは間違いない事ですが、それはあまりにも深くて分からなかったのです。
 ところが合楽によって、そのお教えがいよいよ解明されて来た、その深さ、広さが分かって来た。
 成程、過去の様々な宗教があったけれども、人間が助かると云う事の為にこれほど明解な、しかも人間らしい生き方の中に教えられておる教えは、もう二つとないと云う事を合楽理念では皆さんに説く訳ですよね。
 ですから皆さんもそれを聞いて分かって実顕実証していかなければ、云う事を聞かないのも同じ事になるんぢゃないですか。
 もう時節到来した。合楽によって、合楽理念によって、教祖の信心の深遠さ、本当の事、人間が人間らしく助かっていける、しかも行じようと思えば誰でも行じる事の出来る程のお教えを頂きながら、それを実顕実証してない、と云う事は教祖の神様としても悲しい思いをなさった事であろうけれどもね、金光教百年、初めてその時節が到来した、と云うても私は云いすぎぢゃないと思うんです。
 研修の時に先だって、此処の佐田先生のお兄さんが箱崎教会の教会長の代理をなさっていますが、本部で教会長信行会と云うのがあっております。三日間、全国の教師が全部、何日かに分けて行きますが、此処も行く事になるでしょう。箱崎教会は、その四、五日前でしたから、先生が代わりに行っとります。それで、まだ全部が全部聞いとる分けぢゃありませんけれど、その教祖様のお教えで御晩年の頃のまだ未公開になっておるもの、発表してないものについて説明があった、と云う事で一冊の御本になっておるのを頂いて来とりますから、昨日研修の時にそれを読んで頂きました。
 難しいね、不可解ね、そこの辺の所がどういう御神意であろうかと思うような事ですけれども、これは皆聞かして頂いて、思い、云いもした事でございますけれども、これは合楽で勉強しておる人でなからなければ分からないだろう、と云った事でしたね。
 次の時間に、その頂いた事の研修があった訳でしょう、その時に先生方が云われるのは、今、頂いた教祖様のお教えと云うのは分からないから、これはまあ一時棚上げしといて、そして研修しましょう、といったような事だったそうです。
 頂いたのだけれども難しくて分からない、だからそれはしばらく棚に置いて研修しましょう、と佐田先生が云うておる事ですね。
 これはいよいよもって合楽理念をもって解明していく以外にはない、合楽でお教えを頂いておる者ならば説明を聞けば分かる、と云う事はいかに合楽の今のお教えが教祖百年前、御晩年の頃、お解きになったお教えと一致しているか、と云う事ね。
 此処にもお話に来て頂きました教学所の福嶋先生と云う所長先生が係でお話になったそうですが、私、耳が遠いから、その福嶋先生がおっしゃった、と思うて聞いとったんですけども、福嶋先生がいよいよ合楽に行かなければ、合楽理念に基づかなければ分からん、と云われた、と云うふうに聞いたんです。ところがそれは佐田先生がそう思うたと云うのです。
 そのお話を頂いて、皆が分からん、分からんからこれは置いといてと、こういう時に教祖御晩年のお教えと云うものは合楽理念に基づかなければ分からんと云う事を、昨日、佐田先生が云うてます。これは福嶋先生が云わしゃったのぢゃなくて、私にはそう聞こえたんだけれども、いよいよもって合楽の云われておる事、皆が合楽合楽と合楽に勉強に来なければ分からないような事にもなろうか、と思います。今の所はそれとは反対です。合楽で云うておる事は間違いだ、と云うような方が多い位ですね。
 合楽に来て傾倒しだしたら、やっぱり合楽が本当だ、とこう思いもする、分かりもするけれどもね、兎に角、人の口端には戸が立てられんね。
 それこそ、本当でもないのに本当のように云いふらしておる、と云う事もございますけれども、それとても昨日の御晩年の頃のお教えの中にあるですね。
 人が何と云うても分からんでもね、そこで例えば云い訳をしたり腹を立てたりしちゃならん、と云うお教えが細かに出ております。ま、合楽の場合はそういう所を通しておる、いやむしろその悪評も又、おかげとして私共は受けておるのですけれどもね。
 どうでもひとつ皆さんがね、そういう教祖のギリギリの御信心、もう最高に御神格がお進みになられた時の、そのお話と云うものが今、合楽で説かれておる事、それと一致するのだと。まあだ外にも本当に恐れ入ってしまうような事がいくらもございました。成程これもやはり合楽理念によらなければ分かるまい、成程合楽に現れておる、いわゆる教祖の神様の上に現れなさった神様と、合楽の上に現れなさった神様が同一心であると云う事がこれだけでも分かる。と云うようなお教えばかりです。
 ですからそういうお教えを頂いておってもですよ、皆さんがそれを聞いて云う事を聞かんならそれを実顕実証しなかったら、仕方あるまい。
 ようやく金光教始まって百年、初めて時節が到来した。
 そして教祖のお教えの深遠さを解き明かす事の出来るような御理念に基づく信心の稽古をお互いさせて頂いておるのでございますからね、いよいよ実顕実証。
 昨日は、月末御礼信話会でしたが、御遠方の方ばっかりで一杯でした。
 壱岐、宮崎、伊万里あたりの方達でございましたが、昨日は佐田恵介先生が司会で皆さんのお話を聞きました。
 それこそ合楽理念の実顕実証なさっておられるお話ばっかりでした。かえって地元、足元におるものが、これは本当にグズグズしてはおれん、と云うようなお話しでした。
 その中に古川先生が発表しておりましたね。昨日、二十九日が豊美の誕生、四十回の誕生でした。それこそしみじみとお話ししておりりました。
 もし豊美が四十年前にこの世に生を受けていなかったら今日の私はない。神縁まことに不思議にして…。と祈念詞の中にあるが、もう真に神縁不思議な事です、と云うお話を致しました。
 もし四十年前に私の長女である豊美が生まれていなかったら、今日の古川家、又は、古川威智雄と云う人はどのようなふうに変わって行っとったか分からない。
 今日は合楽をバックにして、こうして夫婦共々信心の稽古をさせて頂いておる、と云う事を思えば思う程、豊美の誕生にかかわっての不思議さを感じると云うお話であった。
 どうでしょう皆さん、これは威智雄先生だけぢゃないです。お互いが合楽に縁を頂いたと云う事は、もうそれこそ不思議な不思議な御神縁に結ばれていっておるのですから、その不思議な縁を縁として合楽をバックとしてのおかげを受けなければ値打ちはないです。 私はそのお話を頂きながら、あの人達が結婚式の時にね、あちらの披露宴の、金光家の先生方や御親戚の、それこそきら星のような方ばっかりが沢山並んでおられる中で私に挨拶をせよ、と云う事であった。
 もうとっさでしたが御挨拶させて頂きました時の事を思い出した。 その時の挨拶の一番にどう云うたか、と云うと「信心しておかげのあるを不思議と云うまじきもの、と教えてありますけれどもね、私自身日々が不思議で不思議でたまらんおかげを頂いておりますが、この結婚式に至るまでの事を思うたら、もう真に不思議と云うてはならんと仰せられるけれども、不思議と思わずにはおられん御神縁でこの結婚式があった」と云う事の御礼を私が申しました事を昨日威智雄先生が発表しておるのを聞いて思うた。
 私は結婚して何十年になりましょうか、その時にそれを云うておるのです。御神縁の不思議さにね、もう驚いてしまっておる話を致しましたね。
 私と皆さんとの係わりあいと云う事も、考えてみればみるほど親先生との縁と云うものが只事ではないぞ、とね。
 金光教の信心が百年間色々に説かれて来て、おかげを受けて来たけれども、それは決して最近云われる十全のものではなかった。
 教祖の晩年のお教えを頂くとそれが十全のものである事がよく分かる、それを解明していってるのが今の合楽の信心であり、御理念によるお教えなんですね。
 云う事聞かん子は親でも仕方あるまいが、とそういう意味ぢゃないよ、そんな事ぢゃないよ、と云うて教祖様がいちいち物をおっしゃるならば、そう云うて正しても下さったであろうけれども、間違った事を間違っとるなりに百年間続けて来た。いわゆる教祖の神様も時節を待ちに待たれた。
 初めて百年後合楽によって自分の本心、天地金乃神を頂かれた事がそのままに誰でも分かるように解明されていっておる。
 そういう時節到来なのである、そういう時期に合楽に御縁を頂いておったと云う事は、それこそ神縁真に不思議な事である、としてそれを生かしていかなきゃ、いよいよ頂いていかなければならないね。
 例えばです、その御本部の偉い先生が、これは合楽理念に基づくより仕方ない、合楽に勉強に行かなきゃ仕方がない、と云われたと私は聞き違いしたんですけれども、そういう時節が参りました時、これは合楽教会で私だけが頂いておると云うおかげではなくて、合楽の信奉者の一人一人がそういうおかげを十全に現しておる、といったような、いわゆる実証者がないならば、又、おかしいでしょ。
 あれは、やっぱ大坪さんだけのものだった、になって来るでしょ。ですから皆さん自身が此処に、それこそ聞かずにおれないように噛んで含めるように教えて頂いておるのですからね、いよいよ実顕実証して頂きたい、そして必ず合楽の信心に皆が傾倒して来る時期が来るでしょう。
 それ迄にはいよいよこれを見て下さい、と一人一人が、合楽理念、いわゆる御理念による助かりの様子をですね、発表も出来、見てももらえれようなおかげを頂いて頂きたい、と思います。
                        「どうぞ」